「励ましてほしい」
と公に言ってる人をテレビで見た。(多分)
内容は全然覚えてない。
多分、街角インタビュー的なものかと思うが、確かではない。
ざっくりだが最近付き合ってた人と別れた淋しいから励ましてほしい、とかそういう感じだったと思う。
それを見て本当に衝撃的だった。
吃驚した。
その発想がなかった。言ったことは勿論、考えたことすらなかった。
これは何だろう。
本気で言ってるんだろか。ポーズだろか。
後者なら全然理解できるが、前者の場合…。
相談すらその最中に人に言った事もないし、常に自己報告だった自分としてはショックだ。
色んな人がいるんだな。
と思った。
煙草
初めて吸ったのは19歳のクリスマスイブかクリスマスの夜。
飲み屋から帰ってきた父が、煙草を忌み嫌ってた私に笑いながら嫌がるだろうと笑いながら「やるわ、吸うか?」と渡した新しいピースの箱。
苛立ちから「じゃあ貰う」と受け取り自然な流れで吸ったのだ。
当然生まれて初めての煙草の不味さと眩暈で嫌な気分になったが、嫌いな父から悪いものを勧められたことで自傷的に始まった。
この眩暈は身体を蝕んでくれると思った。
というか望んだ。
そうこうしてる間に適度なライトな煙草を吸うようになっていき、30過ぎてやめた。
煙草をやめて相当経つが今も屢々夢に見る。
無意識下では幻惑され通し。
でももう吸わない。
自分の精神力の弱さが解ってるからこそ。
なのに気付いたらアルコールOKになっている。
つくづく弱い精神だ。
そしてそれを憎むこともなく、自傷としては甘く受け入れているのだ。
精神と肉体、どちらを優先する?
内心は精神だが、何でも程々を目指さなくてはいけない。
つまらないとは思うが、本当は偏りたいがだめだ。
バランスを取れることに喜びを覚えられるようになれたらいいのだろな。
無花果
母に持っていった。
どうだろう、嫌いだったっけ?いや、どうだったろう。聞いたこともない気がするけど、あまりうちにはなかったかもしれない。
そう考えつつも、季節のものだし、いつも同じようなものだしと思って持って行った。
どうやら好きではなかったようだ。
あぁ…そうだったか。
あまり母は嫌いなものを特別言ったりしなかった気がする。そのために母の苦手なものがあまりわからない。
ぎりぎり牛乳はあまり好きでないということだけ知っている。時代的に美味しくない牛乳かかなミルクだったかで酷い味だったみたいだ。
ここ7〜8年で初めて知った母の苦手なものは色々ある。
もっと,好き嫌い教えてくれないかな。
いっぱい我儘いってほしいな。
そうでないとどんどん辛くなる。
何か楽しんでいてもいつも十字架を背負っている感じがする。わたしだけ楽しんだら幸せに思っていいのだろうか、いやだめだ。
そんなのが、ずっとある。
きっとこれからもそうだ。
そしてこれを考えている間、辛くて仕方ないがどうすることもできなくて、もっと自分を嫌になる。
8月下旬
早い。
飲んだくれてる間に夏が終わってる。
読みたい本がいっぱいある。
既に何度も読んでる本たち、手許にあるけど手をつけてない本・手をつけ始めて相当面白いが読んでしまっては後の自分に良くも悪くも影響を受けてしまいそうで止めた本、全くのらない本、手許にはないがいつか手に入れたい本。
現時点でこれらを読むのにどのくらいの時間が必要だろか。時間があるから甘えてるとわかっている。
20代最後の恋愛は、もう恋愛に疲れ切って飽和して、会っていても、美味しいものを食べていても、旅行に行っていても、頭の中はとにかく本を只々読みたかった。本と言っても既に持っていたTの本だ。
少し前の自分とは全然違った自分になっている自覚があったから、確かめるために必要だった。全部読むためには没頭したい。片手間で読める内容じゃない。
移動時間に読めたら少しは緩和したのかもしれないけど、三半規管がポンコツなので、酔って半日具合が悪くなるのがお決まりだ。
当時の人にはあまりの申し訳なさと、不甲斐なさと、恥じ入ることばかり、救ってくれた感謝しかないというのに。
で、何なら本来の自分はこっちでは?とか思ったりした。中学までの自分?いや図々しいが。
そのベースとなったのは小学生の時に絵本からの流れで、Tと出会ったこと。そしてゲーテの格言集。
これが,支柱的な気がする。
特に後者はペラペラの文庫で空間もいっぱいあったから、そこに好きな言葉や詩を見つけては書き込んでいて、高校生になってもしていたから、細かい文字でぎゅうぎゅうだった。
きりがないな。やめた。
お盆
また夏は傾いてきている。
プリンセスは生きていれば20歳。
没入して、手触り、重み、鼓動、匂い、表情、腕の力、牙と爪の痛み、目を瞑れば立ち現れる。
なるべく辛い時は避けて、元気な頃のを優先しよう。
それでもやはり晩年の表情、目の表情はとにかく多くのことを含んで語りかけてくれたし、語り合った。
何なら最期が最大値。
…いや置いといて。
みんな猫たちひとりひとり、オリジナルな匂いがある。思い出せるのは今いる子たち以外には3人。
それも必死で忘れない為に刻みつけたから覚えていれただけ。
意識してなかったこの匂いは思い出せない。
もう何度も繰り返してきたから、忘れない為に毎日、忘れたくないものは刻むのだ。
特に貴女は高貴な匂いだったから鮮明だ。
早く弟連れて帰っておいで。
酔
父方の祖母は長崎の原爆を見たと聞いた。
郊外の高台から。
沢山子供を産んで敗戦後、暮らしが後退した夫(私の祖父)を諦めながらも立てて一緒に暮らし、子を残して育て上げた逞しい人。
私にとっては決して優しくなく、沢山の孫に囲まれた祖母。
80になって禁煙をして、90になって再開したと聞いた。
そりゃそうだ、何ももう我慢なんてする事ない。散々我慢もしてきた筈。思うようにしてほしい。
それでも95くらいまで生きた祖母。
私の兄は人懐っこく、愛嬌のある人だったからとても,可愛がられていた。そんな兄を幼い頃から高校時代までは羨んでいた。話が逸れた。
でも亡くなる少し前にはやっと私の母や私に意識を向けてくれるようになっていた。
わかりやすい、饒舌な、表面的な優しさとは違った、地味で主張しないが、直接には親身に思う事に気づいてくれた。つまり私の母の優しさ、気持ちを最期らへんに注目し大切に見直そうとしてくれた。
きっと慌ただしい日々ばかりだったんだろう。
今は理解できる。
それを伝えてくれた事に感謝している。
どうかおばあちゃん、いろいろ会話できなかった事、質問できなかった事、許してほしい。
今は脳内で会話している。
ごめんなさい。
今よりもまだもっとずっと幼くて拙くて。
何とかも遅いことは重々承知。
だからずっと悲しいまま、生きていく。
今なら話せたのかな。
いや…自信なんてほんとない。
親とだって今なら間に合うだろう事だって、其の儘なんだから。
何も進歩しないで、懺悔やら後悔やら、只々積み上げていく人生。
今
が人生のピークだと10年くらい思いながら生きている。
つまり更新している。
まさかこんな日が来るとは長い間思ったことはなかった。about29歳まで。
6歳からずっと芯にあるのは、生き残ってしまうことへの不安。
詳しくはやめよう。
とにかくそれでも生きていかなくてはいけないということ。別に私1人が居なくても数人しかその時点で悲しむこともないし、損失でもないから、悲しんでくれる人がいるうちに…と長い間思い続けていた。まぁ今も奥では思ってる。
まさか何もかも諦めて捨てて、その後にこう来るとは未だに夢のような感じかないでもない。
おまけのボーナスなのだ。
感謝しかできない。
申し訳ない。